aytk’s blog

本音の一歩手前を吐くブログ

伏線回収

浪人時代、自己紹介で「僕のことはオッチーと呼んでください」という、ペンギン好きでちょっと胡散臭い先生が好きだった。

 

その人から「不便益」という言葉を知り衝撃を受けた。

 

不便だからこそ得られる利益がある?

 

この考え方に生来のアマノジャク心がくすぐられ、すぐに虜になった。

 

例えば勉強も一種の不便益で、

 

「自分で試行錯誤しながら知識を体系化するからこそ、血肉になるしありがたみもある。思考の基礎になりえる。コツだけを教わっても小手先の受験テクに過ぎないからクソの役にも立たない。」

 

といえる。

 

二次試験本番間近、その先生はまたしても不便益を持ち出して、

 

「不安定こそ唯一の安定です。本番で感じる恐怖を、足枷だと思わなければいいんです。つまりその恐怖を楽しんだら、マイナスがプラスに転じるのであなたは無敵になります。」

 

と宣う。「恐怖を感じるからこそ、それを楽しめる」という図式なんだろう。

 

宗教勧誘と錯覚しながらも、やれることはすべてやるのが最善手だったので、その通りにしたら第一志望校に受かった。

 

 

入学して早々、不便益に関する書籍を一冊買った。

 

でもその時を境に日々の煩悩にまみれて、浪人での頑張りと一緒に徐々に忘れていった。

 

 

そうこうしているうちに入学から3年が経った。

 

進級の階段を踏み外し留年が決まっていた僕は、現実逃避から1000ページ近くある一冊の本を手に取る。

 

虚数の情緒」だ。

 

序章で、数学が数学だけの枠に収まらず、この世のすべての学問領域に通底しているということが熱く語られていた。

 

これを読んで、とある本が想起される。

 

長沼信一郎の「物理数学の直観的方法」だ。

 

テスト前に藁をも掴む思いで読んでいたから印象に残っていた。

 

あとがきで、三体問題を切り口に社会現象を作用マトリクスで説明していたことを思い出した。

 

これをきっかけに長沼信一郎先生本人にも興味が湧いてきて、「現代経済学の直観的方法」も読むに至る。

 

ここでは資本主義経済の暴走を止めるにはこれからどうしたら良いかということが、最終章で語られていた。

 

また一貫してこの人は、文理科目すべてを大まかに把握した人間が必要だと主張している。

 

 

これらの読書体験から、「この世のすべてを理解したい」という浪人時代に抱いていた野望を思い出し、学部時代とは無関係の専攻領域を目指し、無事入学した。

 

さすがは天下の東京大学というべきか、その分野の権威みたいな人が行ってる講義が多い。

 

詳しくは知らないが、和泉先生はその代表的存在らしく、ミーハー心で彼の講義を取った。

 

そこで僕は不便益と感動の再開を果たす。

 

その講義はオムニバス方式なのだが、ある回で「仕掛学」というものを提唱する先生の講義があった。

 

仕掛学とは、「行動する人が意図せず問題解決に向かうような仕掛け」を研究する学問だ。

 

例えば、男性用の小便器に的のシールを貼ることで、便器外への尿の飛び散りを防ぐ効果を見込むという仕掛けが、事例の一つとして挙げられる。

 

また他の事例として、ごみを入れると落下音と衝突音を巧みに組み合わせて、あたかも地の底までゴミが落ちていったように見せかけるゴミ箱がある。

 

調査によると、このゴミ箱の設置のおかげでわざわざ周りからごみを拾ってくる人も現れるようになったらしい。

 

ここで閃く。

 

「わざわざ手間をかけることが喜びに繋がるのって、不便益に通じる考え方なんじゃないか?」

 

 

また、西成活裕先生もその一人で、確かに言っていることに絶妙な納得感があった。

 

「これからはT字人材が求められます。一つの得意な領域を身につけたうえで、他の領域もまんべんなく知っておくこと。一つの領域しか知らない人は「専門バカ」、まんべんなく知ってるだけで深くは知らない人は「クイズ王」です。」

 

 

ほぼ時を同じくして、就活を始める。

 

社会との接点を持たないと話は始まらんぞと思い、今専攻している領域を目指すきっかけにもなった「現代経済学の直観的方法」を再読する。

 

しかし、やらなければならないことから少し外れた行動は、得てして本筋よりも遥かに面白い。

 

今回もこの例に漏れず、同筆者の「物理数学の直観的方法」にも手を出すことになる。

 

そこで電撃が走る。

 

時間つぶしにくまなく読もうと、解説欄の筆者の名前を見たら「西成活裕」とあるではないか。

 

この本を買ったのは大学1,2年生の時だから、なんとそのときから西成先生のスピリットを知っていたことになる。

 

これには驚いた。

 

その時はまだ、何となくそのまま京大の院に進学するんだろうなとぼけっとしていた時期だからだ。

 

僕は興味を持つべくして今の専攻に興味を持ったらしい。

 

 

 

西成先生も登壇する物流の講義が面白く、彼の著した書籍にも興味が湧いた。

 

「逆説の法則」だ。

 

この本は昔からある「損して得取れ」が数学的に正しいことを証明する。

 

つまり、「長期的な視野でものを見よう。初めのマイナスには目をつむってトータルで見たらプラスになればいい。」という考え方を勧める。

 

ここでも直観する。

 

「不便というマイナスをあえて受け入れることで、それなしでは得られなかった利益を得られることは、逆説の法則の一つなんじゃないか?」

 

この閃きは正しいことが証明される。

 

第一章の「便利さとひきかえに」の節で直接、不便益との関連性が述べられていたからだ。

 

 

余談だが、不便益に関する文献を読み漁っていたら、仕掛学との関連性も当然のように論じられていた。

 

 

 

事の始まりは浪人。

 

そこで出会った、オッチーという先生が教えてくれた不便益という概念。

 

大学生時代に面白いと思った本。

 

それらがもとになって志すに至った大学院。

 

大学院で面白いと直感した人たち。

 

 

 

これらすべてが一本の軸で繋がっていた。

 

こんな大きい伏線回収は初めてだ。

 

いるべくしてここにいることが誇らしい。

6年越しの気づき

一人暮らし6年目。

やっと気づいたことがある。

 

先月のブラックフライデーに乗じて冷蔵庫を買い替えた。

 

150L強の少し大きめのやつだ。

 

それまで使ってたやつは100Lに満たない何とも頼りないやつだった。

 

調味料だけでいっぱいになるし、買い物のたびにテトリスをやる羽目になる。

 

でも天板の高さが腰ぐらいだから、上に電子レンジを置いてさらにその上にトースターを置けるところは気に入っていた。

 

ブレーメンの音楽隊よろしく、ちょっとずつ小さくなっていく白物家電たち。

 

東京では建物が縦に伸びていくのも頷けるなと思いながら5年が経った。

 

 

 

ところでこの冷蔵庫、電子レンジを上に載せてもまだ少しだけスペースが余る。

 

だからレンチンしたものをそこで取り扱うのにちょうどよかった。

 

自炊で初めて覚えるのは白ご飯をラップにくるんで冷凍することだろう。

 

こんなお手軽便利な非常食製造方法があるのに、サトウのごはんは誰が買うんだろう?

 

そんなことはさておき僕は、白ご飯を冷凍するときは必ず、油性ペンでラップに重さを記録しておく。

 

そうしたら胃袋の空き具合とのミスマッチを防げるからだ。

 

 

 

ラップに書かれた数字とその時の胃袋の様子をすり合わせてレンジであつあつにする。

 

そのあつあつご飯が触れる温度になるまで冷蔵庫の天板の上で少しだけ休ませる。

 

そののち開封して茶碗にイン。

 

これが一連のお作法である。

 

 

 

さて、ここで僕はある問題に悩まされていた。

 

あつあつになると油性ペンのインクが冷蔵庫に写ってしまうのだ。

 

一人暮らし1~2年目のときこそ、インクが写る時間を与えないように火傷を覚悟してスピーディーに開封作業をしていたが、次第にインクの汚れが目立つようになってどうでもよくなってしまった。

 

 

 

機能に変わりはあるまいと高を括って5年間過ごしてきたが、ここにきての買い替えである。

 

できるだけ純白を保ってあげたいのが人情だ。

 

と言いつつもやはり火傷は嫌なので、あきらめようとしていたところでひらめいた。

 

 

「パッケージの裏側に書いたらいいじゃん」

 

 

と。

開封するときに接地しない側の、ラップが折り重なるほうに書けば解決する。

 

なんでこんな簡単なことに5年も気づかなかったのか。

 

摩訶不思議だと頭をひねっていたら、あることに気が付いた。

 

ご飯をくるんだラップに文字を書く時、ペン先から伝わってくるラップのつるつる感と米粒のでこぼこ感が合わさった感触に心地よさを感じている。

 

無意識ながらその快感のとりこになっていたのだ。

 

つくづく習慣というものは恐ろしい。

 

 

 

こんな話、わざわざ人に言うほどのことではない。

 

だけどここ最近で一番大きい気づきだ。

 

だから電子の海に漂ってもらうことにした。

 

 

 

当たり前だけど作家さんのエッセイのようにはうまく書けない。

 

でもうまく書けないってことが分かったから、書いた価値があると思っている。

 

いつかあんな風に読みやすい文章が書けたらいいなあなんて思いながら、飽きるまでは続けたい。